新型コロナウイルスに感染、肺炎を発症
令和5年5月20日
一級建築士 津島 勝弥
2021年5月、新型コロナウイルスに感染して肺炎を発症し、のちに隔離入院となった際には、皆様に大変ご心配をおかけしました。退院後、通院しながら徐々に仕事復帰しておよそ2年。復帰当初の原稿に「徐々に復帰しておりますが、社会環境同様に自身の体調も、元のようには戻らないことを覚悟しております。」と申し上げたとおり、現在も完全復活とはいえず、突然、呼吸障害を起こすことがあります。先日も、某団体の評議会で事前審査の報告をしたのですが、たったA4書類1ページ程度の報告中に息が切れ、激しい動悸を起こしてしまいました。カラオケで1曲を最後まで唄えるようになるぐらいに回復したいのですが、当分難しそうです。
さて、過日、NPO住まいのホームドクター/設計者の会の理事長から、感染経験を報告できないかとの話をいただき、あくまで日記やメモから書き起こした「記録」としてなら、とHDニュースに出稿させていただきましたが、NPO欠陥住宅をつくらない住宅設計者の会のHPにも掲載していただくことになりました。なお、基本は日記的な表現のままで、経年による文言、文脈の修正をしました。
【発症・感染発覚】
5月4日(火)、朝から38.8℃と高い熱。家族はLINEで「病院!隔離!」「入院させてもらえないでしょう熱だけでは」と、いろいろ調べて情報を入れてくれる。
私自身も具体的な受診の窓口や手順を調べるが連休中である。救急要請でない限り受診は難しく、とにかく今日は、解熱剤を服用して早く寝ることに。
5日(水)、市販薬で熱は下がったが(切れると)また上がる。高い熱のために食べられない。脱水症にならないよう水分を捕る手先が震える。コロナ感染しているかもしれない。かかりつけ医のいない私は、明日(連休明けに)PCR検査を受けるために区の相談機関に電話することに。
6日(木)、開庁すぐに受診相談センターに連絡。紹介された区内の医院に電話するが、連休明けでさらに木曜は午後休診が多く混雑しているのか出てくれない。連絡できた3件目の医院で昼過ぎにやっと検査を受けられる。そして、その晩11時前、陽性と通告される。
【聴き取り・療養開始】
7日(金)、保健センターから電話。宿泊療養施設入所できるが利用せず自宅療養を選択。発症から14日遡った行動履歴(接触者について)の聴き取り。体温、体調の確認を受ける。(その後も、担当者から毎日一回の確認。)また、観察数値として何度も測るようにセンターからパルスオキシメーターを借り受ける。家族は妻が濃厚接触者として2週間の休職、娘2人もPCR検査を同じ医院に受けに行くことにする。
感染者数が増加、センターには多数の応援が入っているが、区外の接触者との突合せは困難で、感染ルートは解明不能、無自覚無症状の“感染者”から感染との結論に。応対した様子、正常な味嗅覚で「軽症」として県にカウントされる。
8日(土)夕方、長女は陰性、次女は陽性との結果に。妻は症状なく職場復帰前に抗体検査をすることに。私は相変らず熱が下がらず、事務所にベッドを組立て隔離、区の配食サービスを頼み、療養期間を設けることを各所へ連絡する。家では洗面とトイレにアルコール消毒と私専用のタオルを置くことにする。
私自身も軽症の認識でいたが、実際には感染による肺炎(急性呼吸器感染症)を発症していた。
9日(日)、関係各所に連絡を入れ、自宅療養を始める。熱があるので基本はベッドで横になる生活である。医院から処方された解熱薬を服用するためにも食事を摂ろうとするが、配食の半分ほどを残す。陰性の娘が滋養ドリンクやビタミン飲料、プロテインなど補給食品を届けてくれる。陽性の娘の方は症状も熱もなく、出勤停止の措置自体がつらそうである。
【急速な悪化・救急入院】
配食弁当は半分程度、“おかゆ”であってもおなかに重く、食べられない状態が続く。10日(月)、急速に症状が悪化。玄関先に弁当が届いても取りに行けず部屋の中を少し動くだけで息苦しい。パルスオキシメーターは、(SpO2)が70台まで下がるようになっていた。意識がはっきりしておらず、ほとんど横になっていた。センターからは「(数値が悪すぎるので)すぐ入院させて」と勧告され、妻が救急搬送を要請した。
後日、参考にした『診療の手引き第2版』によると、SpO2値は、分類【中等症Ⅱ 呼吸不全あり】の基準(SpO2≦93%)と示されていて、この時の私の数値ははるかに下回っていた。
救急車内では複数の病院に受入れ要請。30分ほどしてM病院(西区)から受け入ると返事。レベル6(重症)の酸素吸入を受けながら搬送された。胸の上に大きな家具がのしかかっているような重苦しさが、酸素吸入によって解放されていく。
【救急搬送で】
全身を防護服で覆った3名の救急隊が、折りたたまれたストレッチャーとともに8階の玄関に現れる。エレベーターは、ストレッチャーや棺桶が載せられるほどの奥行を持たないので、私は車のシートに座ったような状態で1階に降ろされる。そして地上で水平にされ、救急車両に搬入(格納?)される。
受入先が決まるまで出発できない”待ち時間”がある。30分ほど待ったと前回にて報告したが、今後、パンデミックになり発症者(≦感染者)が増えるケースでは、救急車両が不足することも考えられる。症状発覚後に重症化する進行はとても速く、緊急を要するため、利用する救急車両の不足は、受入先決定までの長時間化とともに、人命に係わる不安材料となる。また、救急車両だけでなく救急隊員の不足も想定され、今後の大きな課題と考える。余談だが、名古屋市の救急車両は全市で45台〔※1〕。なお、すべてが高規格の4輪駆動であり、「乗り心地」はあまりよくない。
※1:2021年当時の情報。2023年2月28日現在では、救急隊が1増、46台の車両に。さらに、4月からは熱中症の救急要請が多い昼間の時間帯専用車「ブルーエイト」が2台増強される。
【病院施設へ】
5月の夜風が肌寒い。救急センターに運ばれ、ストレッチャーから医療ベッドには自分で移動。名前と生年月日を確認後、肺のレントゲンとCTのマルチスライスを受ける。搬送時の中濃度酸素吸入マスクはそのままに、バイタル値の測定のため、心電図計測の電極やSpO2測定発信機を体につけられる。自宅を出る際に、前ボタンのパジャマに着替えていて、まな板の何某。おまかせの状況である。
入院では、身元引受や家族の同意などの書類を事前につくるが、緊急であり、さらに感染予防で付添い不可のため、これから本人が説明を聞き署名することに。私の場合、症状と緊急性で署名は受入れ時の看護師が代筆している。
薬剤点滴を施され上階の病室へ。移動中は天井しか見えず、建物の全体像はわからない(到着時に方角を見失っている)が、窓から中村日赤病院の明かりが見え西側の部屋と分かる。看護師に病院施設の案内資料を脇に置いてもらう。
列車の走行音や発着時の加減速音が聴こえる。すぐ下が駅だろう。
施設や設備の説明と、ごはんが食べられない対処(治療に含むこと)、治療計画と投薬剤の説明を受ける。厚労省への薬剤の使用申請と同意書への署名は看護師に代筆してもらう。さらに、着替えなどの荷物の確認を手伝ってもらい部屋着と日用品のレンタル手続きなど、初期の書類関係をすべて片づける。
看護師とは、長女と同じ歳などいろいろと話をしたが、いつの間にか眠ってしまう。
【入院生活 1週目】
11日(火)、ふと目を覚ますと夜明け前で、廻りに看護師がいる。点滴は付け替えられている。ぼんやり聞いていてよくわからない。異常とか…。点滴の管、酸素吸入管、心電図の電極や測定機の結線などで拘束が続く。熱があり、眠気で意識が遠のく。結局はほとんど何もわからず仰向け状態。
朝、改めて薬剤と栄養剤の点滴。PCR検査では、看護師の遠慮のない鼻奥への一撃でしばらく痛みと涙が止まらない。
食事はおかゆと刻んだおかず。たった80グラムのおかゆが重く、半分も食べられない。肺炎の要因に、発熱時から続く食欲不振による体力の低下があり、治療と並行に食べることも大切だということはわかっている。
病室は減圧空調が作動し、ベッドのマットも空気圧で膨張収縮する。床ずれ防止ベッド?まるで呼吸しているような音。はじめは気になったが夕方には感じなくなる。
相変らず夕食でもおかゆが重く、半分ほど残す。もったいないが使い切りの食器ごと自分でベッド脇のゴミ箱に捨てる。食べた量や排せつの有無を看護師が聞きに来て、勤務交代の度に看護師から心配される。
夜9時の消灯後も点滴がしばらく続くので、夜中でも何度も尿意を催し、その度に看護師に介助を頼まなければならない。酸素吸入用の管、点滴、心電図モニター、パルスオキシメーターなどいくつもの管やリード線で繋がれているためで、とくに酸素は管先を壁のソケットからボンベに付替えて運んでもらう必要がある。(自分は右手に点滴の支柱、左手に線や管を持って移動する。)
夜中に何度もコールすることに彼女たちは嫌な顔ひとつしないが、その度に半透明の防護服を付けなければない。気の毒なので、明日から夜中は尿瓶を使用して点滴交換時に処理してもらうことにする。
12日(水)、午前中、病室でレントゲン撮影。タイヤの付いた可搬式の撮影機材を押して技師が来る。もちろん防護服を着用している物々しい姿で。
看護師は治療薬と栄養剤の点滴のため、また、朝(と夕方)の勤務交代時にバイタル値の測定のために来る。主治医は外来診療が終わった午後から、診察や今の病状の説明に来る。
6床室で、手前2つのベッドを撤去した室内にひとり。誰にも気を遣わない生活。折角の静かな空間なのでテレビはつけず(体調がいい時には)本を読むことにする。
酸素吸入をマスクタイプから鼻腔への突起のついた管に変えてもらう。まだ、酸素吸入レベルは入院時の4のまま。
微熱は下がらず、歩くにも脚がふらつく。トイレや歯磨きのあとベッドに戻るとSpO2値は70台まで下がっていて最低の気分に。つい小さく小刻みに呼吸してしまうので、大きく深呼吸してみると途端に脈が速くなる。このまま呼吸が弱くなっていくのか。
午後から、廊下をはさんで建物の東側の部屋に移ることに。今の部屋はトイレが廊下の向こう側にあり、東側の部屋は入口脇にあることが理由。各病室とトイレの位置関係は『避難経路図』で理解する。また、この病棟1-6階が感染症専用に対策をした領域であることを知る。
13日(木)、入院4日目、相変らずいくつもの管と線(電波)で繋がれ、トイレに介助を頼む状態が続く。シャワーもまだ認められず看護師に体を拭いてもらうしかないが、こちらは結構気持ちいい。
これまで食事(全きざみ仕様、おかゆ)が半分ほどしか食べられなかったが、ほとんど食べられるようになる。事情を言って朝食時の服用薬とともに出してもらった整腸剤(乳酸菌)の効果であろう。
鼻腔への直接酸素吸入で、通常の不織布マスクをすることになる。管から直接酸素を入れるので鼻腔が荒れて出血する。強制的に酸素が送られ過乾燥となり流血にはならないが、やわらかな血の塊で溜まるためうっかり鼻付近を触ると手やマスク、枕が真っ赤になる。染まった手を見て「なんじゃこりゃー」の松田優作になる。
14日(金)、心電図モニターは外れたが、今日、3度目のレントゲン画像で肺の白い影が入院当初と2度目の画像よりかなり増えてきていることが判明。
入院後の治療で、数日間の肺の状態は比較的落ち着いていたが、呼吸状態がこれから悪化していく心配があり、「気道管理のためにも他の大規模医療機関に転院し、気管挿管して安定した治療を受けられるようにすべき状況。」と主治医から転院を勧められる。転院には紹介状を用意するということ。これは肺が重症化していることを意味する。
この先、気管挿管や最悪の場合のエクモの使用となれば、麻酔による意識喪失を伴うことになり、とても不安であるが苦悩のうえに承諾。ラインで報告している家族には、転院のことは決まるまでは伝えないことにして、「ごはん食べられた?」の問いに「完食した」とだけ返信する。喜んでいるスタンプが届く。
今日、入院してから初めて、便らしい便が出る。(実際は10日ぶり。)
15日(土)、熱は上がったり下がったり。息苦しさがまだあるためトイレに行くのはまだしんどい。次女が日用品やら本を届けてくれる。ただし、感染予防対策により面会は不可。病棟には入れないため、看護師に頼んで外の駐車場で受け取ってもらう。今日の看護師は本の量に驚いた様子。
土曜は、主治医の診察もレントゲンもなく、看護師の巡回と点滴治療のみ。毎日でも自分の肺がどうなっているか知りたくてしかたないが、土日は休診である。不安を打ち消すように本を読み漁る。
今日のPCR検査も遠慮のない一撃。「痛かったですよね。」とすまなそうにしている看護師に罪はない。でもしばらくは涙が湧き出てくる。
私はこのPCR検査が苦手だ。
【入院生活 2週目】
16日(日)、相変わらず呼吸が浅いので酸素吸入がないとつらい。吸入で咳込むことはないが、ときどき体が“勝手に”大きな息継ぎをする。昨日のPCR検査の結果は陽性。入院一週間で声が前へ出なくなり小さくなった気がする。食事は残さなくなったが、容器を捨てにベッドから降りるとふらつく。あれ、昨日までこんなだったっけ?という感じ。肺炎症状だけでなく運動しないことで足腰が衰弱している。
床頭台の埋込画面に黄色い三角マークがありⅡと標示されている。看護師にきくと「患者の危険度」で、評価Ⅱは移動動作に看護師の介助が必要(転倒転落の危険性あり)ということ。当初から黄色Ⅱであり、脚の衰弱は予見されていたか。病室をすぐ替えたのはトイレが隣接しているからとのことだったが、この評価が理由であろう。
17日(月)、熱や頭痛はなく、咳も減って落ち着いている。午前にレントゲン撮影。昼食後に主治医から「治療のためのミッション」の説明をもらう。
◎レムデジビル点滴投薬とともに、腸内菌を整える薬も治療として続ける。◎食事が完食できるので、明朝からごはんをおかゆからお米に。おかずも全刻みをやめて普通食に。◎転院の予定がつかない(重症用ベッドが空かない)ので、今日撮影した画像と先週金曜の画像とを比べて方針を決める。もし、影が増えている(中等症Ⅱレベルを超える)ようなら挿管治療前提に転院の待機。影が減っている(中等症Ⅱレベルを脱する)ようなら転院せず呼吸を自力で回復させる治療をしていく。
主治医が再度来る。「肺炎の進行は少しだけ減速している。」と云う。転院しての挿管治療は必要なくなった。
パルスオキシメーターを発信管理型から単独型に交換し、酸素吸入をはずす。次回のレントゲン画像で進行がさらに抑えられている様子なら、来週月曜(24日)が退院目標とのこと。退院ときくだけでうれしい。
18日(火)、平熱で安定、血圧も戻してきている。酸素吸入の管から解放され点滴だけになったので、看護師の介助なしでトイレに行け、歯みがきが洗面でできるようになる。ただし、まだ呼吸が浅いのでトイレと洗面以外で病室外に出るのは許可されない。
洗面の大鏡で自分を見るが、そこには髭男がいた。手入れをしない髭面のメシアは病人候で見ていてつらい。早くシャワーを使いたい。ちゃんと髭を剃りたい。
昼前、ごはんが普通に食べられ、安静時には自力呼吸が楽になってきたことを主治医が確認、レムデシビルの点滴注射は終了に。しかし、SpO2数値はまだ80台後半までしかなくベッドから降りると脚が覚束ない。快方に向かっているのはうれしいが、僅かの歩きでも息苦しいので実感はまだ薄い。
19日(水)、「もう点滴なしですよ。」と看護師。管がとれてシャワーが許可される。シャワー室の使用は患者間の調整で16時からに。手元の本を読み切ってしまう。昨日、本棚を確認して頼んだおいた本を長女が看護師を通して届けてくれる。午前中にレントゲン撮影。その後は昼ごはんを挟み読書ときどき睡眠。16時すぎ、いよいよシャワー室の使用ができると連絡が来る。
入院日に計らなかった身長と体重を移動途中で計る。体重は8キロ落ち。入院前から食べられず運動もしていないので筋肉が落ちている。とくに脚はひどく、脹脛は両手でつくる輪くらいの太さだったが、今は中指を重ねた輪ぐらいに細い。脱衣時にふらついてき片足では立てない。宇宙飛行士が地球に帰還するとこうなのだろう。しかたなく床にひざをつき脱ぐ。
シャワー室は、(手前は緊急スペースか)奥に長い。背もたれのないシャワーチェアがあるが、ソフトパッドなのに座ると痛くて使えない。お尻の肉がないことに今更気づく。ベッドには座れるがチェアは無理で、考えた挙句、両かかとの間にお尻を入れ床に直に座る。脚は痛いけどお尻の痛さよりましである。椅子を使わないので鏡の位置が高くなり、顔下半分が見えにくい状況で髭と格闘。きれいに剃れているかをPCR検査に来た看護師に確認して安心する。
20日(木)、昨日のレントゲン撮影診断の結果、土曜に退院しても大丈夫との判断をもらう。ただしPCR検査結果が2回続けて陰性であることが条件。退院後の来週水曜(26日)の診察を予約。感染症からの回復による退院ではなく、新規感染者のベッドの融通が目的。
21日(金)、かなりの雨模様。今日は某所の防火設備点検だったが、入院を伝えチームで進めてもらっている。退院後に打合せるが仕事復帰できるのだろうか。朝、検診とPCR検査。点滴がないためこのあと看護師は来ない。食事は出入口脇のテーブルに置かれる。
「朝の検査で検体がうまく採取できてなかった」と来ないはずの看護師。食事前に再度PCR検査。もう片方の鼻腔を突かれる。ウイルスの死骸(正確には形が壊れたもの)にも反応が出るらしく陽性の報告かと思ったが、採取できなかったとは…。陰性確認が目的なので仕方ない。主治医から、抗体が確認できるまでは、さらなる変異型に侵されないようステロイド治療を続けると説明を受ける。
レントゲン結果から、主治医は外来診察予定の26日(水)の前、24日(月)も診たいと云う。土曜退院で月曜外来受診とは、あからさまな病床確保の退院。
いずれにしても、現状は筋肉が落ち体力がなく、息苦しさが劇的に改善したわけでもない。退院後もしばらく療養期間であるのは間違いない。適度な運動と栄養補給には自由度がある自宅の方が堅いかもしれない。
22日(土)、最後の検診。診てくれたのは搬送時に入院看護の説明と書類に代筆してくれた看護師(次女と同じ歳)。「運ばれた時、血中酸素が低く、呼吸も浅くて、朝までもたない場合も考えられたので本当によかった。」と云われる。急速な悪化だったから、病院への搬送が遅かったらと思うと、皆に感謝しかない。
妻は今日から仕事復帰で、迎えは午後でいいかという。一応11時までは在室できるので、その後は1階ロビーで待つことを考えるが、廊下から聞こえる清掃やリネン交換の喧騒に居づらいものがあり10時半、件の看護師に連絡し退室を伝える。
ストレッチャーで運ばれたルートを逆に辿り、フロアを隔離する扉を開錠、礼を言ってエレベーターで1階に。ロビーにはコンビニで購入して飲食できるテーブルがあるが、休診日はコンビニが外からしか利用できないためがらんとしている。迎えが来るにはまだ2時間以上。誰もいないロビーで本を読み始めるが、痩せたお尻では長く座っていられず、警備員に声をかけ少し外を歩くことに。外の空気に触れ、靴を履いているからかゆっくりだが思いのほか歩ける。今週、昨日まで雨ばかりだったが、今日は薄い日射しがとてもやさしい。
【感染者に名古屋市保健所長が交付した書類】
①就業制限通知書 法第18条第1項
名古屋市保健所長から退院後に書類が送付されました。新型コロナウイルス感染症は、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」に定められた感染症であるため、PCR検査で陽性が判明した5月6日付けで、『就業制限通知書』が出され(てい)ました。内容は、上記の法第18条第1項の規定にて、(次の2つの業務-)飲食物の製造、販売、調整又は取扱いの際に飲食物に直接接触する業務、接客業その他多数の者に接触する業務に対して、病原体を保有しなくなるまでの期間又はその症状が消失するまでの期間は、就業を制限するという通知書です。(違反者は法第77条第4号の規定により50万円以下の罰金に処せられることあり。)設計事務所は法律が意図する飲食・接客業ではありませんが、行事や講習はNGでしょう。
②入院勧告書 法第19条第1項
さらに、救急入院した5月10日付けで、『入院勧告書』が出され(てい)ました。内容は、同上の法第19条第1項(第26条で準用又は法46条第1項)の規定にて、新型コロナウイルス感染症のまん延を防ぐ理由で、10日21時までを期限に(搬送決定した医療機関の)M病院に12日21時まで(3日間)入院しなさいとの勧告書です。
もちろん、救急要請が先で、搬送の事情を踏まえ後から記載されたものです。また、まん延防止(隔離)が目的のため3日間の限定です。(入院勧告に従わない場合は、法第19条第3項の規定による措置を実施することがあり、また、入院勧告の期間中に逃げた場合は、法第80条の規定により50万円以下の罰金に処せられることあり。)
③入院延長勧告書 法第20条第1項
5月13日付で、22日まで入院の延長を勧告したもの。
④確認通知書 法第12条
5月22日付で、病原体を保有していない(発症から10日間経過し、かつ、症状軽快後72時間経過した)ことを確認したとの通知。退院したことで発行された通知書です。 備考欄に、<就業制限通知を受けた方へ> 法第18条第2項(就業制限)の対象者ではなくなったことを確認しましたと記載されています。
【感染症入院患者に病院が交付した書類】 (入院期間のもの、医療費会計を除く)
病院は患者を受入れる際、説明書や計画書を作成する。5月10日入院時には以下の書類①から⑥を作成。使用申請した特例承認の製剤名は「ベクルリー」。厚労省が所有するレムデシビル製剤で相当高額なものだった。書類⑦は5月22日退院時に交付されたが作成されたのは20日である。入院医療費はすべて公費負担を受けたが、退院以降の通院医療費は公費負担されない。
①『入院診療計画書』
主な項目:病名、症状、治療計画、検査や手術内容および日程、担当者他。入院期間には「5月23日(予定)まで(※現時点で予想されるもの)」と記入。2週間は入院治療が必要としていた。
②『退院支援計画書』
主な項目:病名、患者以外の相談者、支援計画者名、問題点・課題、目標、支援概要等。退院困難な要因には「急性呼吸器感染症、緊急入院である」と記入。
③『看護計画説明書』
主な項目:目標「呼吸苦なく安楽に過ごす事ができる」。看護の内容「体温、脈拍、血圧測定と全身の観察」、「点滴施行中の針の挿入部の観察、定期的な刺し直しによる静脈炎予防への努め」、「清潔のケア(体ふき)や口腔ケア」。さらに、入院生活を安全に送るための「転倒転落予防」、「誤嚥予防」。私の状態は危険度Ⅱの黄色シグナルで、移動動作に看護師の介助が必要なレベル。
④(治療薬の)『使用申請書』
申請先:分任物品管理官 厚生労働省健康局結核感染症課長、主文面:レムデシビル製剤(販売名:ベクルリー点滴静注液100mg、同点滴静注用100gm)の使用について、医師より有効性及び安全性の説明を受け、使用について同意しましたので、国所有のレムデシビル製剤の使用について申請します。
⑤(「書類④」で申請する治療薬を使用する)『同意書』
想定される副作用。当該製剤が特例承認であること。新型コロナウイルス感染症への使用には、効果や副作用が改めて評価される予定があること。これらの同意。
⑥『同意説明文書』
⑤の同意書に署名する際のさらに細かな説明の文書。
⑦『退院療養計画書』 (退院時に交付)
項目:退院後の治療計画、退院後の療養上の留意点、必要な保健医療または福祉サービス。治療計画に「外来にて診察。次回外来受診は5/24(月)」とあり。
結局、24、26日(水)、31日(月)の外来受診以降は自宅療養に。(6月4日より一部の仕事復帰。)