賢くなるということ?
平成24年5月18日
一級建築士 平岩 保
賢い、賢くなるということは、むつかしいこと?
生産ライン化(ロボット化)できなく、天候に左右され、現在の施工者が明治時代の大工が社会的弱者であった頃にできた法律に守られ、PL法の対象にもならず(欠陥をつくった側でなく、受けた側が欠陥を証明しなければならない)、その上、ハウスメーカー、工務店の設計施工という第三者チェックが働かない(どこかの原子力ムラと同じ)現在の住宅の生産システムにおいて欠陥が生ずるのは当然のなりゆきである。防ぐ手立ては、皆無に等しいと思われる。
確かに近年、一部の弁護士、建築士による取り組みで欠陥が生じてからの対応は随分改善されてきている。
ただし、欠陥防止ということになるとほとんど歯止めがかかっていない。品確法等法律で規制はするものの最初に述べた種々の理由により何ら有効な手立てとはなり得ていない。
自己責任と言うことで少し厳しくいうと建てる側が我が家(ハウス)を所有すること(持ち家)にマイホームの夢を持ちすぎたのではないか。(甘く言えば国の政策によって持たせられた、あるいは踊らされた)
第二次世界大戦後、日本は経済発展の原動力の柱の一つとして持ち家政策を取った。その為、誰でもが家を持てるような政策、(土地の取得を含めた)融資制度(ローン)を行った。
しかし、そのことは決して家を造る側の質的な豊かさに繋がらなかった。施工者(設計施工)と金融機関の利潤の収奪の場を生み出してきたことに他ならなかった。
社会的に考えれば戸建てであれ集合住宅であれ利潤追求を行わない生産システムでの社会的ストックとして良質で耐久度の高いものを創れば生涯を通じて余程ローコストで豊かな環境が開けてくるのではないか。
そろそろ自己所有財産と言う「持ち家」の呪縛から縁を切り、生活の物理的環境が継続でき社会的ストックとして有用な住環境を考える発想の転換期(それを実現させることこそ住まう側が賢くなることかと思われる。)が来ているのではないかと思われる。